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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 ~梶原景時の館があった寒川を巡る~

記事公開日:2022/11/16

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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 ~梶原景時の館があった寒川を巡る~

「鎌倉殿の13人」のタイトルの由来にもなった、「十三人の合議制」。頼朝の急逝にあたり、鎌倉幕府の重鎮たちが2代将軍・頼家の独裁を防ぐために発足した体制です。

鎌倉氏の支流であり、大庭氏とも同族にあたる梶原氏の武将、梶原景時(かじわらかげとき)もそのメンバーの1人。そもそもは平家に従う立場から後に源氏の傘下に入り、比較的初期から頼朝と鎌倉幕府を支えた人物でしたが、前回特集した源義経とは対照的に、しきりと讒言(密告)をする、言わば“チクリ屋”のような悪いイメージを付けられており、歌舞伎や講談の中でも悪者の役割を与えられることがままあります。

所謂”判官びいき”のとばっちりを受けてしまった景時ですが、鎌倉幕府成立を大きく助けた、有能な人物だったことは間違いありません。
そんな景時のゆかりの地が、湘南地域北部の神奈川県寒川町に多くあることをご存じでしょうか。
ゆかりの町ではどのように語られているのでしょうか。伝承の残る地を巡りました。

 

目次

 

…始めにおさらい《梶原景時》…

◆梶原景時 (1140〈?〉~1200)

寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市にまたがる広大な荘園・大庭御厨(おおばみくりや)を開発し、伊勢神宮に寄進した桓武平氏の流れをくむ武将・鎌倉権五郎景正(御霊神社の祭神)を祖とする。初めて記録に登場するのは源頼朝が挙兵して最初の戦「石橋山の合戦」(治承4〈1180〉年)で、生年やそれまでの歩みは明らかになってはいない。
「石橋山の合戦」では、いとこ同士でもある大庭景親率いる平家軍に従軍。山中に逃げ込んだ頼朝らを捜索中、洞窟に潜む一行を見つけるも「ここには人はいないようだ」と味方側に報告。死を覚悟していた頼朝は、お陰で辛うじて逃れることが出来た。

その後、同年に頼朝が再挙した「富士川の戦い」では平家が敗れ、大庭景親は降伏するも許されず、処刑される。景時もまた、地元の豪族・土肥実平(どいさねひら)の仲介で頼朝に降伏。景時が有能な人物であることを確信した頼朝に迎え入れられ、配下となる。
侍所の所司(警備・警察・戦の奉行)に任じられた景時は、頼朝からの厚い信頼を勝ち取り、鎌倉幕府の重要人物に上り詰める。その様子は鎌倉時代初期の僧・慈円が記した史論書「愚管抄」の記述にて「鎌倉ノ本体ノ武士」(=誠の鎌倉武士)と称されている。

頼朝の没後も「十三人の合議制」に名を連ね、2代将軍の頼家の側近として仕えていたが結城朝光が頼朝を偲んで発した「忠臣は2君に仕えず」という言葉を曲解し、謀反の兆しとして頼家に忠言したとして他の御家人たちの不評を買い、没落。鎌倉を追われ、相模一ノ宮(現在の寒川町)へと退いた後に上洛を目指す途上で在地の武士と戦闘になり、一族33人が全滅。景時もまた自害した。辞世の句は「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ」

 

【寒川町の梶原景時ゆかりの地】

1.寒川神社

歴々の武士らにも信仰された「八方除け」の守護神

相模国を中心に広く関東地方を開拓したという寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)の2柱を祭神とする、関東有数の神社。約1600年前には奉幣(ほうへい=神に幣帛〈へいはく。供え物の総称〉を奉る行為)の記録があります。

寿永元(1182)年8月11日、頼朝の嫡男・万寿(後の頼家)の出産を控えた政子の安産を祈願するため、近隣の霊験あらたかな神社10社に奉幣のための使者を派遣しました。
この際、景時の次男である梶原景高(かじわらかげたか)が一宮(寒川神社)に派遣されたそうです。(「吾妻鏡」より)

同社の「方徳資料館」には、武田信玄が小田原攻めの際に先勝祈願のため奉納したという兜や徳川家康の寄進状、小田原北条氏の3名(北条氏綱、氏康、氏政)が同社を修理した際の棟札等が収蔵されています。
これだけのビッグネームが揃うと、どの時代をテーマにした歴史散策をしていても欠かせないスポットになっていると言えるかもしれません。

あらゆる厄災から身を守る「八方除」のご利益がある神社として名高く、頼朝や梶原家のみならず、古来から様々な歴史上の人物から敬仰されてきた寒川神社。現代も絶えず多くの参拝者で賑わっています。

住所 高座郡寒川町宮山3916
アクセス JR相模線「宮山」駅より徒歩5分
地図
TEL TEL0467-75-0004
URL https://samukawajinjya.jp/

 

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2.梶原景時館址(一之宮天満宮)

広大な景時の館の物見跡と伝わる天満宮

梶原景時は高座郡一宮を所領としており、同地には館があったとされています。その姓の通り鎌倉郡梶原郷を本貫地(一族の発祥の地)としていた梶原氏と寒川の繋がりを示すのは「吾妻鏡」内のいくつかの記述のみ。どういった経緯で同地に所領を持つに至ったのかは実際の所、よくわかってはいません。

「吾妻鏡」の文中に於いて、一宮館についての初出は景時が御家人たちの弾劾を受け、館を後にする下り。

 

十三日辛丑、陰る、梶原平三景時、かの状、訴状を下し給わるとえいども、陳謝に能わず、子息親類等を相率して、相模国一宮に下向す、ただし三郎兵衛景茂においては、しばらく鎌倉に留まると云々(「吾妻鏡」・平治元(1199)年11月13日の記述。書き下し文は「寒川町史研究第33号」・高木英彰「資料紹介・一宮館の記録」より)

 

平治二(1200)年2月6日の記述では、御家人たちの雑談にて「あの時、景時は屋敷からすぐに逃げ出さないで、周囲の橋を落として立てこもればもうちょっと何とかなったんかなったんじゃないか。いつも言ってたこととやってることが違うよね(意訳)」と言うような発言がされています。(ニュアンスまでわかりませんが、亡くなった後の陰口の様な…そんなに嫌わなくても)
同史跡周辺は現在は住宅街となっていますが、土塁跡と伝わる盛り土や掘跡と伝わる水路跡が広い範囲に渡って残っています。同史跡は付近より一段高い立地になっており、物見櫓の跡でないかと言われています。前述の雑談と併せて考えると、防御の構えが整った堅固な施設だったのかもしれません。

住宅街の中ほどでぽっかりと緑に囲まれた天満宮。周囲には滑り台、ブランコ、鉄棒といった遊具があり、公園としても利用されているようでした。
襲撃に備える物見であった場所が、その必要がない時代になり子どもの遊び場になっていると思うと感動的な光景です。

館跡を示す石碑の傍らには大河ゆかりの地の目印にのぼりが立っています。
取材時にはオレンジ色のコスモスに囲まれていました。

住所 高座郡寒川町一之宮8-6−6
アクセス ・JR相模線「寒川駅」南口徒歩10分
地図

 

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3.梶原伝七士の墓

悲しい最期を迎えた梶原一族の、再興を願った忠臣の伝説

館跡から徒歩2分ほど離れた空き地に並ぶ石塔郡。
一宮を離れ、京へ上る道中で討たれた一族郎党を、一宮館の留守居約であった家族と家臣らが弔ったものとも、一族の家臣の七名(七士)を弔ったものとも言われています。

後者については、景時父子が討ち死にした後、景時の妻を匿うため信州に逃れ、隠れ住んでいた家臣七名が、後に世情が変わるのを待ち、鎌倉に梶原氏の復権と所領安堵を願い出たが敵わず、家臣らはその場で自害。これを祀ったものという伝説が残っています。

お墓の傍らに建てられた、地元の団体「寒川梶原顕彰会」による景時の長男・景季(かげすえ)のモニュメント。平家物語で語られた故事「箙の梅」に基づいたデザインです。
義経の鵯越の逆落としで有名な「一ノ谷合戦」に於いて、景時は息子たちを連れて出陣。次男の景高が逸って先駆けするのを景時・景季父子がなんとかフォローするも、窮地を抜け出し一息ついたら今度は景季がいない。景時は「私が頑張っているのも子供たちのためだ」と言って敵陣に取って返し、再び奮戦して大きな戦功をあげました。「梶原の二度之懸(にどのかけ)」と呼ばれるエピソードです。

この時、ぼろぼろになりながら戦っていた景季は「散る時に一際香る梅の花があれば、自分が死ぬ時に武功が残るだろう」という意味を込めて、箙(えびら。矢を携帯するための武具)に梅の花を挿していました。その風雅な有様は敵味方問わず称賛されたということです。
フィクション内で悪人扱いされがちな父とは異なり景李は好人物として描かれることが多いようですが、「二度懸け」の逸話は景時の優しく強い父としての姿の印象も強く残るものになっています。

 

▲墓の背後の壁沿いに走る側溝は、館の内堀跡との伝承が。 ▲同史跡からほど近い県道44号線沿いには、寒川町の教育委員会と寒川梶原顕彰会が景時没後800年の折に設置したという、大きな案内板が。非常に詳しい内容になっています。

 

住所 高座郡寒川町一之宮8-6-6
アクセス ・JR相模線「寒川駅」南口徒歩10分
※案内板は県道44号線沿い、【2】の館跡と七士の墓の中間あたり
地図
※案内板の地図はコチラ

 

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4.一之宮八幡大神(はちまんおおかみ)

一之宮を守護する鎮守社。梶原館の鬼門封じの役割とも

参道入口の大きな鳥居が目を引く神社。江戸時代の元禄10(1697)年創建と言われていますが、一説にはもっとずっと古く、梶原景時が館の鬼門を封じるために創建したとの伝承もあるそうです。鬼が出入りする不吉な方角とされる「鬼門」は丑寅=北東を指し、確かに同神社は館跡の北東にあたりますが、だからこそこの伝承が生まれた、といった所でしょうか。

▲拝殿の龍を象った木彫り彫刻が立派。親子の獅子も可愛いので探してみてください。

 

例祭の前日に行われる「一之宮八幡大神屋台神賑行事」は寒川町の町指定重要文化財になっています。町の3カ所から1台がおよそ2トン以上の屋台を人力で引き回し、八幡大神に向かいます。
このときの屋台に、「【3】梶原伝七士の墓」の項目でご紹介した、景季のモニュメントのもとになった図案が彫刻されているのだとか。
お囃子を流し、大勢で屋台を引く賑々しい行事に、風雅なエピソードで知られる景季の屋台はきっと華やかで目を引くことでしょう。

 

住所 高座郡寒川町一之宮1-21−10
アクセス ・JR相模線「寒川駅」徒歩9分
地図

 

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5.南部文化福祉会館(梶原義時常設展)

伝承の地に建つ町民憩いの場。景時への敬愛の念溢れる常設展で史跡めぐりをより楽しく

公民館と老人福祉センターとの複合施設。ウォーキングやお散歩中の「足の駅」としても活用されており、広いロビー内にはいくつも休憩用の椅子を置いてくれています。(実際、宮山駅から歩き通しだった私も英気を養わせていただきました)

ロビーの一画では梶原景時についての資料展示が行われています。家系図、登場する浮世絵と戦の解説、ゆかりの品等が並び、丁寧に手書きでしたためられた略歴からは溢れんばかりの景時愛を感じます。

こちらは会期を設けていない常設展示とのこと。取材当時は寒川文書館での講演情報や梶原一族についてまとめた無料の冊子なども置いてありました。
位置的にも【2】~【4】までの史跡と近しい立地のため、歴史散策の際は是非立ち寄ることをお勧めします。

住所 高座郡寒川町一之宮8-5-20
アクセス ・JR相模線「寒川駅」徒歩9分
地図
時間 9時~21時半
休み 第3月曜、年末年始休館
TEL TEL0467-75-1777
URL http://samukawa-c.jp/

 

 

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町の人たちにとって身近な存在である南部文化福祉会館で、1人の武将の常設展示がされている寒川。これまで巡った町の中でも史跡ごとの丁寧な案内やのぼりが印象的で、今尚、梶原景時が非常に愛されていること、「レッテルに囚われない、別の景時像を知ってほしい」という熱意を町全体から感じます。

「鎌倉殿の十三人」での景時は、ステレオタイプな”讒言者”ではなく、しっかりと仕事をこなす有能な武将として描かれ、義経ともウマは合わないとはいえ、内心、実力はお互いに認め合っているような描写がされていました。
他の御家人の目には薄情に映った「疑わしきは罰する」姿勢も、戦の世で一つの組織を守るためには「誰かが汚れ役をやらなければいけない」という固い意志に基づくものだったのかもしれません。
寒川を巡り、自分の中の景時像を新たに探してみても面白いのではないでしょうか。

 

<おまけ・その他近隣のゆかりの地 >

1.梶原太刀洗水(神奈川県鎌倉市十二所)

鎌倉幕府前夜、謀反の芽の”粛清”に暗躍した景時の逸話が残る

山に囲まれた立地の鎌倉と外部を繋ぐ七つの切通(きりとおし)「鎌倉七口」の一つ「朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」。
この辺りに、上総国(かずさのくに=現在の千葉県中央部)から頼朝の挙兵に応じた郎党・上総広常(かずさひろつね)の屋敷があったと伝わっています。東国で強大な力を持っていた広常は頼朝挙兵の最大兵力として活躍しましたが、後の寿永2(1183)年、謀反を疑った頼朝により、誅されます。
「愚管抄」によればこの時広常の暗殺を請け負ったのが景時。切通には、景時が刀に付いた血を濯いだとの伝説が残る湧き水「梶原太刀洗水」があります。

「愚管抄」ではこの暗殺の情景がやけに生々しく、具体的に描写されています。

 

「(前略)命を受けた梶原景時が介八郎(※広常の事)を殺したのであるが、景時の功名はいうことばもないほどであった。その時、景時は広常と双六をしていたが、景時が双六の盤をさりげなく越えたと思う間もなく、広常の首はかき切られ、頼朝の前に差し出されたという、本当とも思えないようなことであった。」(大隅和雄訳 講談社学術文庫「愚管抄 全現代語訳」より。カッコ内の注釈は当コラムによる追記)

 

「鎌倉殿の13人」ではドラマの主人公である北条義時をはじめ頼朝や他の御家人も揃う中で、一撃目で死を免れた広常が事態に狼狽え逃げ回るも…という、より酸鼻でやり切れない描き方をされていましたが、愚管抄の描写は鮮やかで、もっと活劇的な、言ってしまえば格好いい見せ場としても映像化出来そうです。「鎌倉殿~」では、だからこそ「実際には現場はもっと簡単にはいかなかったに違いない」という解釈を加えたのかもしれません。

それにしても、このスポットはGoogleマップにも地点登録されているにもかかわらず、随分探しました。
緑が鬱蒼と生い茂っている上、実際には上記のようにかなり控えめな水量だからです。長く伸びた竹の先に細い糸の様な水がちょろちょろと流れており、これで何かを洗うとしたら大分もどかしい思いをしそうです。

▲広常の館があったとされるあたりに「三郎の滝(朝比奈の滝)」という別の滝もあるため、お間違えなく。 ▲大分ささやかな水量の「梶原太刀洗水」。「鎌倉五名水」の1つにも数えられていますが、残念ながら現在は飲用には適さないそうです。

 

 

切通は山道自体に水が流れている地帯もあり、滑りやすくなっていました。水を貯えやすい土壌で、当時は湧き水にももっと水量があった可能性もあるのではないかと思います。
鎌倉駅から向かうと少し遠くは感じますが、自然いっぱいで清々しく、歴史の深みも感じる良いスポットです。取材日には滝のそばで昼食を楽しんでいる方もいらっしゃいました。
気候の良い時期にぜひ訪れてみてください。あまりにも自然豊かなため虫の季節には対策を。

住所 鎌倉市十二所
アクセス ・「鎌倉駅」東口より京急バス「金沢八景駅」または「鎌倉霊園正門前太刀洗」行、「十二所神社」下車徒歩7分
地図

 

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2.建長寺(けんちょうじ)

「景時の霊が現れた」寺。今尚「施餓鬼会」で霊を慰め続ける

鎌倉市山之内の建長寺には、生前の報いで死後、飢えに苦しむ餓鬼となった者を供養する「施餓鬼会(せがきえ)」に景時の霊が現れたという言い伝えがあります。
ある年の「施餓鬼会」を終えようとしていた寺に一人の武者が訪れるも、既に会が終わってしまったのを見て取って、残念そうに帰っていこうとしました。その姿を見た禅僧・大覚禅師(蘭溪道隆)は武者を呼び止め、もう一度「施餓鬼会」を行ったところ、武者は「自分は梶原景時の霊である」と言って感謝を述べたのだとか。
同寺は以降、現在に至るまで毎年「梶原施餓鬼」を行い、景時の霊を慰め続けているそうです。

桜の名所としても人気の「建長寺」。
詳しくはこちらの記事もご覧ください。
⇒「鎌倉殿の13人」ゆかりの地×桜の名所 in 鎌倉 「建長寺」

 

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