「ちがさき丸ごとふるさと発見博物館友の会」が今年で結成5周年。
茅ヶ崎の”知る人ぞ知る”製糸工場「純水館」の歴史を紐解く講演会を開催
今も史跡として姿を残す、かつて群馬県富岡に設立された「富岡製糸場」。2014年に世界遺産登録されたこともあり全国的に広く知られた存在だが、ここ茅ヶ崎にも“世界屈指”とまで言われる製糸工場があったことは地元・茅ヶ崎市民にすらあまり知られていないという。
そんな、未だ知る人ぞ知る存在でありながら、茅ケ崎発展の歴史にも色濃い影響を及ぼしたという「純水館茅ヶ崎製糸所(以下、純水館)」の歴史を紐解く講演会「糸もつくるが人もつくる ~純水館茅ヶ崎製糸所と小山房全(ふさもち)~」が10月22日(金)、茅ヶ崎市民文化会館小ホールで開催された。
同講演は市内全域を“博物館”に見立て、文化や歴史、自然、産業といった都市資源の調査・研究と活用を目指す市民団体「ちがさき丸ごとふるさと発見博物館友の会(丸博友の会)」結成5周年の記念講演。
講師には茅ヶ崎郷土会の名取龍彦氏(下写真)が招かれた。
名取氏は、これまで研究者がいないと言われていた純水館と同館館主の小山房全について、調査・研究すると共に、その結果わかってきた事を講演で発表するなど、同館の周知を広めるために精力的に活動。
純水館があったのは茅ケ崎駅北口、現ヤマダ電機予定地付近。敷地は6314.27㎡と、元町のエリアから郵便局のある一帯にまで及んでいたと広大な物であったが、現在は建物は完全に逸失している上、歴史的な資料は殆ど残っていないとされていた。
しかし名取氏は研究を進める中で「意外にも、かなり重要な資料やデータを各所より掘り起こすことが出来た」という。
当時実際に使用されていた道具やシルクラベル(糸を海外へ輸出する際に付けたラベル)など、蚕糸業に関する実物資料も多数蒐集。これらは「名取移動博物館」と称し、講演の際に手ずから会場に持ち込み、展示しているという。
この日の会場でも、講演の前後や休憩時間にはロビーの展示に来場者が集まり、理解を深める助けとしていた。
▲画像左=名取博物館に展示された、「上蔟注意番付」(上蔟〈じょうぞく〉=繭を作る前段階のカイコを、繭を作るための部屋に引っ越させる作業)。「横綱=適温」、「関脇=換気」など重要な事項が番付に例えて記述されている。画像右=「シルクラベル」。生糸を海外輸出するに際し、生産者名、生産地、糸の質などを示すためのラベル。製造所ごとに異なり、明治・大正の日本のモダンなグラフィックデザインが目を惹く。
講演では初めに10分程度の短い映画「依田社の記録」を上映。依田社は長野県小県(ちいさがた)郡丸子町にあった製糸会社で、房全の実父・工藤善助が2代目社長を務めていた。同映画は大正時代、アメリカに向けての自社宣伝用として撮影されたもので、最盛期の生糸作りの様子が動画として生き生きと、モノクロフィルムに収められている。
▲操業中の純水館。煙突にはカタカナで「ジュンスイカン」の文字が。
世界遺産「富岡製糸場」にも比肩する!?
製糸業に適した環境と良好な労働環境が生む美しい絹糸
純水館は大正6(1917)年創業。元は長野県小諸で製糸工場を営んでいた房全が茅ヶ崎にやってきたそもそものきっかけは、自身と妻・喜代野、長男、義母と一族が茅ヶ崎のサナトリウム・南湖院に入院したことだったという。当時の茅ヶ崎は
(1)積極的に工場誘致を行っていたこと
(2)輸出の窓口となる横浜港が近いこと
(3)競合となる大規模な製糸工場がなかったこと
(4)周辺が養蚕地帯であったこと
(5)工場に欠かせない良い工業用水が確保できたこと
など、条件がそろっていたことから、工場の建設を決意。工場で働く女工も集団で長野から茅ヶ崎へと移ってきたのだが、この時の1枚の写真がある。
江の島を背に、浜辺で撮影された女工ら350人で撮影された集合写真で、純水館オープンを控えた大正6(1917)年2月4日、江の島の遊覧記念として撮影された1枚で、「時代を鑑みるともしかしたら、女工さん達はこの時初めて海を見たのかも」と、名取氏。房全の、社員に対する心遣いが伺える。
大正時代の女工というと「女工哀史」「あゝ野麦峠」のイメージもあるが、前述の例にも見られる通り、純水館では女工らを手厚く扱い、房全が教育に高い関心があったことから月1度は有名な講師を招いて裁縫などの講義を開き、寄宿舎には雑誌・新聞や新刊本を揃えた図書室を設置、野球やテニスの時間も設けるなど「人材を育てる事」を大切に運営されていた。まかない所での食事も評判で、小山夫妻も一緒に同じ献立を食べていたという。
このことは大正13年6月15日の横浜貿易新報(現神奈川新聞)に「藤澤茅ヶ崎方面 純水館の近況 絲も造るが人間も造る」という見出しで記事にもなっている。
熱心な人材作りも功を奏したのか、生糸そのものも出色の出来だったという。
当時、横浜で高級生糸を取り扱っていた渋沢商店(※渋沢栄一の従兄が経営)の取引先ごとの価格表には、他の製紙工場が14中(デニール=太さ)で30円、50円という金額が並ぶ中、純水館は300円と一際高値で買い取られている。
更には大正12(1923)年の皇太子(昭和天皇)のご成婚、昭和3(1928)年の昭和天皇御大典(即位礼)の2度に渡り、全国の養蚕家からの献上繭の繰糸を数多の製糸工場の中から抜擢され、任されていたという記録も残り、優れた製糸技術が高く評価されていたことが伺える。
主な輸出先だったアメリカでは「Special Doble Grand Extra」と格付けられ、アメリカで1、2を争う規模の絹物会社の社長・チャールス・チニーが「フランスと遜色ない程の高級な生糸を日本でも作り出せる事には驚いた」(概略)と、称賛する言葉を残している。
「当時フランスは高品質の生糸生産国として知られていました。日本の中でも質の高い糸が評価されていた純水館は、“世界屈指の繰糸技術を持っていた”と言っても過言ではないでしょう」(名取氏)
現在は目の前の通りだけが残る純水館跡地。
町発展に寄与した”理念”と”思い”を未来へ
人道的な労働環境と手厚い人材育成に基づく、美しい糸を世界へ向けて送りだしていた純水館だったが、大正12(1923)年9月の関東大震災で建物が全壊、喜代野夫人も自宅で被災し亡くなってしまう。
こうした不幸に見舞われながらも、翌年には再建、生産を再開するなど純水館はひたむきに繰糸を続けていった。
しかしながら、”生死業”とも言われるほど、浮き沈みが激しくリスクが高かった製糸業。時代は移り、昭和8年には糸値が大暴落。昭和12(1937)年、純水館も製糸権を放棄して廃業した。
名取氏は「純水館を、日本の未来にしたい」と語る。
「房全はクリスチャンだった喜代野夫人や尊敬する政治家・後藤新平ら周囲の人々との交流の影響もあり、『物質的にも精神的にも、持つものは社会へ奉仕しなければならない』というような考え方の持ち主でした。茅ヶ崎の商興会や信用組合の立ち上げに関わり、一般の人も招いての納涼祭や映画上映会などの催しも行っていた。
企業の世界進出や社会奉仕は今では当たり前に耳目にしますが、今から100年前に、自然体でそれを行っていた。足跡を辿ることで『あなたは何ができますか?』と問いかけられているように思えます。
これまで知らなかった方たちにも広めていくことで、房全の投げかけを、未来へとつなげていきたいと願っています」(同氏)
同講演会実行委員会の有村さんは、「本講演会前に、周囲の人たちに純水館について知っているか聞いてみたら認知度は約1割程度だった。本日お越しいただいてくださった皆様には、純水館のあったヨーカドー北側から郵便局の方へ伸びる道を『純水館通り』と呼んでいただけたら」と、提案。講演後には当時を知る人への情報提供も呼びかけられ、これから益々知られざる茅ヶ崎の歴史が明らかになっていくかもしれない。
▲写真手前から奥へと伸びる道が”純水館通り”。通り右手の建設中のヤマダ電機が、純水館の敷地跡に当たる。