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町の成り立ちに息づく家康の足跡~特別展「ひらつかの家康伝説」(平塚市博物館)

記事公開日:2016/04/19

この記事のテーマ:


実は多くの家康伝説が残る平塚。その足跡をつぶさに紹介

平塚市には、徳川家康に関する史跡や遺品、伝説が数多く残されているのをご存じだろうか。同市域の自然と文化を展示している平塚市博物館では、徳川家康没後400年にちなみ、企画展「ひらつかの家康伝説」を開催中だ。
会期は5月8日(日)迄、入場無料。

駿府(静岡)から江戸へ移った家康。平塚は道中での”鷹狩り拠点”

平塚市域と家康にゆかりが生まれたきっかけは、1590(天正18)年に豊臣秀吉が小田原北条氏を攻め滅ぼした「小田原合戦」。同合戦後、家康は関東の領主となることを命ぜられ、居城を駿府城(すんぷじょう=駿河国〈現在の静岡県〉)から江戸城へと移すこととなった。
葵紋附御茶碗 (宮川正嗣氏蔵) 葵紋附櫃 (宮川正嗣氏蔵)
平塚市片岡の旧家・宮川家には、この時、同家の先祖が六所神社(大磯町国府本郷)から吉沢村(平塚)までの道案内を務め、自邸に家康が宿泊をしたとの伝承がある。家康から拝領したという「葵紋附御茶碗」(上写真左・宮川正嗣氏蔵)や、「葵紋附櫃(ひつ)」(上写真右・同氏蔵)とともに、現在まで同家に伝えられてきたという。
その後も家康は江戸と京都を往復する道中、しばしば平塚市域に立ち寄って鷹狩りを行っていたと言われていおり、その際に休息所として使用していたと伝わっているのが「豊年山清雲寺」(別名御茶屋寺=平塚市豊田本郷)。同寺が1595(文禄4)年に水害に遭った後は1596(慶長元)年に造営した「中原御殿」(平塚市御殿2丁目、家康の没後に解体)を宿所としていた。そのため清雲寺には家康から賜ったと伝わる茶碗などが残り、近辺にも家康が鷹狩りの際に起きた出来事、周辺住民との交流についての逸話や拝領物と伝わる品が多く残っている。平時は各寺、各家の個人所蔵であるこうした品が一堂に集められている点も同展の見所の1つ。

家康が普請したと言い伝えられている堤防「御所様堤」
町の発展の足跡にも残る”伝説の面影”

家康ほど影響力が強かった人物ともなると、虚実ともに多くの伝説が残る。しかしながら、同展では平塚にまつわるものを、敢えて真実性を問わず幅広く収集。それらが土地に与えた影響を考察することで「伝説が伝えられていること自体が及ぼす影響」に焦点を当てる。
一例として平塚市域は金目川水系による豊かな水量を誇り、県下1位の米どころとなっているが、古くから度々水害に悩まされている地域でもあった。現在、金目川最大の堤防である「大堤」(おおづつみ=平塚市南金目)は別名「御所様堤」「御所様御入国以来之堤」とも呼ばれており、前述の清雲寺が水害に遭った折に家康が洪水に苦しむ地元民を憐れみ、堤防を普請させたという伝説が残っている。この伝説が堤防誕生の由来として、家康没後も、幕府が経費削減のために大堤の普請(修繕)の停止を検討した際の調査書や、金目村から幕府へ宛てた、普請について人足追加の許可を求める文書など、様々な古文書に繰り返し登場する。
「『家康が普請させた』という伝説が、平塚市が農業都市として発展するために重要な金目川の治水に大きな役割を果たしたと考えられます。
また、この博物館周辺は市役所、民間工場などが集まり、市の政治経済の基盤となっていますが、同エリアが発展してきたことにも、かつてここに存在していた中原御殿と、その周辺に植えられた松林『中原御林』の存在が影響を与えてきたことが、御殿跡の遷移から読み取れます。
この町の地域性を構成する一部として、今も家康が“生きている”と言えるのではないでしょうか。今回の企画展が、地元をより深く知り、考えるきっかけになれば嬉しいです」(同博物館学芸員・早田旅人さん)

【ひらつかの家康伝説-由緒と地域-】

◆日時:2016年3月19日(土)~5月8日(日) 9時~17時
◆休み:月曜
◆会場:平塚市博物館(平塚駅北口からバス「美術館入口」徒歩3分)地図
◆費用:入場無料
◆内容:徳川家康没後400年の節目に、平塚市域に残されている家康に関する史跡や遺品、由緒、伝説を紹介する。
●特別展示解説
2016年4月23日(土)、5月7日(土) ※各回とも会場は特別展示室 13時~13時55分 参加自由
◆チラシ:(クリックでPDFが開きます)
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◆問合:TEL0463-33-5111平塚市博物館
(更新日:2016.04.19)