▲南上空より見た大庭城跡(1990年12月撮影) (※)
藤沢市大庭にかつて存在していたという中世の山城「大庭城」。
現在は「大庭城址公園」(藤沢市大庭字城山5230-1・地図)として整備され、市民の憩いの場として親しまれているが、史跡としても非常に良好な状態で保存されており、高い価値を有しているという。
▲花見シーズンは特にレジャーで賑わう
文献としては殆ど残されていないため、はっきりとした城主や時代の特定は難しく、その全容については謎も多い。
市では昭和40年代、同公園整備の際に行われた大規模な発掘調査について資料の整理を進めていたが、2018年度ついに調査報告書を刊行。(非売品。同市図書館などで閲覧可能)
これを記念して、2018年12月8日(土)、専門家を招いての講演会「大庭城の謎にせまる」が開催された。
▲会場は藤沢市民会館小ホール。ほぼ満席の大盛況(※)
講師は駿河台大学副学長の黒田基樹(くろだ もとき)氏と、東京都江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一(さいとう しんいち)氏。
黒田氏は日本中世史を専門としており、文献資料から同城との縁が見て取れる「扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)」についても、いくつも著作を記している。
この日は「扇谷上杉氏と相模国」と題し、同家の歴史を改めて振り返り、大庭城がどんな役割を持っていたかを読み解いた。
▲黒田基樹氏(※)
◆扇谷上杉氏と相模国
扇谷上杉氏は上杉重顕(うえすぎ しげあき)を祖とする、関東上杉氏の有力一族の1つ。
元は京都貴族であった上杉重房が鎌倉へ下向して武家となり、その流れをくむ分家として起こったという。家名の由来は鎌倉の扇谷に屋敷を構えたことから。
後に扇谷上杉の当主となった上杉持朝(うえすぎ もちとも)の5男、「上杉朝昌(うえすぎ ともまさ)」こそが、一時期大庭城を守備していたとされる人物。
明応8(1499)年9月6日の父・持朝の33回忌法語が記録されている「玉隠和尚語録」にて「持朝には7人の男子があること」、「その中の一人が大庭城を守っていたこと」が記されている。これが大庭城の唯一の所見であるという。
▲「玉隠和尚語録 謄写本」(室町時代、原本所蔵:東京大学史料編纂所、複製)
黒田氏は「朝昌は、扇谷上杉氏における唯一の一門衆として、大庭城に移る前は中郡の七沢要害(=七沢城。当時現厚木市に存在していた山城)を守っていた。相模の軍事拠点に在城して相模の支配を担う役割にあったのではないか。
裏を返せば、七沢要害、そして大庭城は扇谷上杉氏にとって相模における最重要の軍事拠点であったことになる」と、締めくくった。
◆大庭城が語る戦国時代
▲齋藤慎一氏(※)
続いての講師・齋藤氏は、「大庭城が語る戦国時代」と題し、古文書、発掘調査からわかる城の構造、城の立つ地形などから、大庭城の実像に迫った。
中世の歴史の中でも取り分け城館について深い造詣をもつ同氏曰く、神奈川県内には館、砦、伝承も含めると、1979年時点で381城があるとされており、現在ではおそらくその数は500城に上るのではないかという。
そして、その中でも大庭城はなんと「5本の指には入る」価値を秘めている可能性があるという。
大庭城は発掘調査の際に20本以上の堀が見つかっている。「堀」というと水が張られた様子を思い浮かべがちだが、中世の山城の堀はその殆どが穴そのものによって敵の侵入を妨害する「空堀」であったという。大庭城もその例に漏れない。
▲空堀跡。注意して見ると、園内各所に残っている
大庭城には底が台形型に掘られた「箱掘(はこぼり)」と底がV字状の「薬研堀(やげんぼり)」の2種類があり、その理由はわかっていないという。
「可能性としては、箱掘はもともと掘られていたもので、薬研堀は後から何らかの理由で急遽追加で掘られたものかもしれない。堀は時間経過で簡単に埋まってきてしまうため掘りなおすこともあるが、大庭城にも掘りなおしたように見える堀もある。もしかしたら城として使われていた時代が2回あったのか。または2回、戦乱の危機を予期したことがあったのかもしれない」。
また、現在の公園で言えば大芝生広場よりやや西側に、「馬出(うまだし)」と呼ばれる防御施設とみられる地点がある。「馬出」は出入口である「虎口(こぐち)」に盛土を行い、敵が奥を見通したり直進することを妨げる仕組み。
当時、小田原北条氏の城は区切られた空間が角ばっている「角馬出」、武田氏の城は丸みのある「丸馬出」が用いられるという特徴があったが(例外も有り)、大庭城のは「丸馬出」に酷似している。これはもしかしたら、「扇谷上杉氏が、武田や北条に先んじて馬出に近い技術を取り入れていた」ことになるかもしれないという。
「ただ、侵入を妨げるために作るものとして、大庭城のは向きや位置に謎が残る。構造をさらに解明する必要があるかと思います」(同氏)
更に、県内の他の城跡と比較したとき、“お城のピーク”は1570年~1600年ごろで、殆どの城について年代が明確にわかっているのも同期間。それ以前に遡ると、存在については予測になる。ところが大庭城の存在時期と見られているのは1480年~1500年ごろで、同じ時期に並行して“間違いなく存在していた”城がないため、関東戦国史の中で期待される役割は大きいという。
◆夢は“国指定”!? 可能性眠る「大庭城」
▲それぞれの講座の後には両氏によるフリートークが実施された(※)
ここまで、様々な観点から大庭城の重要性を伝えてくれた両氏。
その後、同市郷土歴史課の宇都 洋平氏(=上写真左)司会でのフリートークでは、「国指定を受けてもよいのではないか」という話題も飛び出し、集まった聴講者たちを大いに沸かせた。
齋藤氏は「国指定に向けては、国の判断材料に加えて、地元の人たちの『この遺跡を守りたい』という強い意志も必要。今回のようなシンポジウムをどんどん開いて周知するのも手です」。
黒田氏からは「群馬では、関東上杉氏”両上杉”のもう一方、山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)をクローズアップしての町おこしの動きがある。藤沢市でも、例えば『扇谷上杉まつり』のようなイベントで、地元から盛り上げてみては?」という提案も。
藤沢市では、藤沢駅直結の藤沢市民ギャラリーにて「企画展 大庭城と城山の歴史」を開催中。ここでは昨年(2018年)度に行われた発掘調査についての最新レポートも公開されている。
地元民にとっては花見の名所として愛されてきた大庭城址公園。今後史跡としての価値が高まり、また違った魅力が花咲くかもしれない。
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(※)印のある写真は藤沢市提供